エントリー締切り明日に迫る! と 締め切った部屋の、長い夜
いったいに、冬という季節は人の動きを緩慢にする。 そもそも 冷たい外気から身を守るため、どこまでが下着でどこからが上着——いやしくも 他人に見られて恥ずかしくない衣服であるかの考察がしばし必要なほどに着衣を重ねた結果、肩、首回り、肘、膝など、あらゆる関節の動きが鈍り、ひいては全身の機能も鈍りくさっていくばかりである。 身体が鈍れば、シンシンという言葉の重なり通り心にも影響が出るに決まっている。その証拠か、春先になると開放が行き過ぎた自身の欲求を持てあまし、遊泳禁止の水辺に飛び込んだり、着衣が少しく足りなかったりする者が世間を賑わすのが習わしだ。 いつのまにか 体の動きに伴って鈍化した心の動きを、少しでも活性化させるのに有効な手立てはないか…と、これまた考察の必要に迫られるのだが、それは決して縄跳びやマラソン、ましてや寒中水泳などといった体に強制的に負荷と苦痛を与えて得られる心の活性とは異なる、もっと文化的かつ人間的なものであるべきだ。と、強く主張したい気持ちすら鈍るのを奮い立たせ、私なりにいくつかの方策を講じてみた。 一、サンサク あまりの目新しくなさに驚かれるな。サンサクにも幾つかの種類があるが、そのなかには屋内にいながらにして行なうものがある。 日頃よく行く道程、もしくは過去に何度か訪れたことのある地域を、脳内で思い起こしながら歩く、脳内サンサクである。あそこの角の店は最近何の店になったか、思い出しあぐねながら、あの道でしか会うことのなかった人に、別の場所で出会ってみたりする。サントミ書店を出て右に曲がり、次の角を左に曲がると見えてくるアーケードの入り口近くで鯛焼を買って…。最も体に負担のかからない策であるが、決してボケ防止などという意義を見出してはならない。 二、ドクショ 同上。一年を通じて行なう人もあるだろうが、想像してみてほしい。夏の、風通し良くもざっくりとしたカバンの中で、ばさばさと動き回る本を。また、梅雨の、まとわりつくような湿気を帯びたベンチでの読書を。 冬のドクショは、保湿クリームやいざというときの防寒具や携帯カイロなど否応なく詰まった荷物のあいまに、安定した位置を占めて運ばれ、その日、最初に触れる時など取り落としても仕方がないほど乾燥した空気の中でページをめくられ、ときには隣に湯気のたったインスタント・コーヒーのカップが置かれさえする、ある情景の中の一要素となって現れる。この情景を楽しむ心が取り戻されれば、そして、傍らに少し甘い物があれば、もはや本の中には何も書いていなくても良いとすら思う。 三、エイガカンショウ スクリーンに何も映っていないのはちと困るが、心の動きが最上級にまで高まれば、その作品も楽しむことが出来るかもしれない。 ここでは、幾つかの作品を切り貼りしたようなエイガカンショウ法を紹介したい。これは、十年、二十年といった長い期間でも、ひと晩でも、行なうことが出来る。ひと晩なら、気になるエイガや人から薦められたものの気乗りしなかった物などを三、四本選んで一気にカンショウする。十年単位で行なう場合は、たまにエイガを観さえすれば、特に意識する事柄はない。強いていえば、観る作品のすべてを真剣に観てはいけない。どちらの場合も、好きなジャンル、一人の俳優の物ばかり観るのはとくに有効である。 あとは、複数の作品の場面やそれぞれのストーリーが自分の頭のなかで混じりあい、繋がり、ひとつのスペクタクルを構築するのを待てば良い。構築という言葉がなんらかの労働を想起させるなら、熟成、といっても良い。この、長く放置する手間を省くのが、睡魔や寝落ちによってもたらされる部分的欠損である。このカンショウ法においては、欠損こそ不可欠な要素とも言える(時には、こっそり自分なりのアレンジを加えることもあるが)。こうして出来上がった作品は、当然私(あなた)ひとりのものだが、誰かとお互いのエイガについて話すのを想像することも、熟成中の楽しみのひとつである。 四、シサク 冬の夜は長く、まだまだ方策を講じる時間はいくらでもある。
写真:熱帯魚の映る映画特集